2012年4月10日火曜日

2012年4月9日月曜日

2012年4月3日火曜日

0331

0331

きょうのもくじ

・朝ランニング
・パパ・タラフマラ
・アートフェア

朝7時に起きれたので久々に走った。
体力が明らかに落ちている。
3キロ走って3キロ歩いた。
家に帰って食べ物が無くて
パンケーキを焼いた。

世の中のパンケーキブームは一体なんなのか。
家で作るパンケーキと何が違うのか。
確かめるためにパンケーキカフェに行きたい。

パパ・タラフマラの白雪姫を見て来た。
2007年依頼二回目。けど、あの時は半分寝てしまった。
今回はおもしろかった。何も考えないで見た。
だから最近いろいろ無理して考えすぎなんだと気づいた。
元々何も考えてないのに
なんとか言葉にしようとして
いろいろ考えて繋げようとしていた。いろんなこと。

先週、ピナバウシュを見たせいか
シンクロする場面が多々あった。
インスタレーションをやっていながら
実は、芸術の極みというか元祖というか果てみたいなものは
身体芸術とか踊りなんだー!と思っていたけど
それをピナとパパタラで再確認した。

ちなみに、編集の極みは漫画だと思っている今日この頃です。

小池さんはすごく言葉がわかりやすくて説得力があるから
あの人からあんな感覚的な作品が出てくることが
不思議でしょうがない。
感性に訴えるような、言葉で表せない作品を作る人は
言葉が苦手な人が多いと勝手に思っていたけど
やはり集団で個を創り出すには
言葉でも上手く伝えることができないといかんのだろうなぁ。

演者さん達の息づかいとか空気とか時間と場所がころころ変わっていくのも楽しかった。

身体能力高すぎて脱帽です。


アートフェア東京に行って来ました。
二年ぶり。
前回もギャラリーの方に呼んでいただいたのだけど
各ギャラリーの売りたい色が強すぎて
作品もなんだか面白いって思えるものもあんまり無くて
アートフェア、楽しくないって思ってた。
まぁ、これもひとつのビジネスだとは思うんだけど
ギャラリストの作品に対する愛よりも
売らなきゃっていう必死さみたいなものの方が強い気がして
私みたいな買わない客には冷たい感じ。

だから元々行く気なかったけど
予定がキャンセルになったので行ってみた。

今年のは素直に見れたしおもしろかった。
アート業界が元気な感じがした。
面白い作品もあったし
刺激的な作品もあった。
各ブースも売り方を工夫しようとしてた。
ギャラリーの色みたいなものも見えた。

震災の後で変わったのかな。
それとも私が変わったのか。

パワーのある作品が多かったから
私のつくりたい欲がもそもそ。
花火職人のところに行ってリサーチしたい。
樹脂ももっと上手く使えるようになりたい。

自分の部屋に飾れるか。
おばあちゃんの部屋に飾れるか。
と考えると
売れてる作品はそのイメージがしやすい作品が多い。
やっぱ壁に掛けられる「絵」は1番売りやすく買いやすくハードルは低いんだろうなぁ。
それ以外がダメだって訳では全く無いのだけど。
インスタレーションを作りたい立場としては難しいよね。
作品を売ることと作ることに関してはまだ自分の中では整理できていないから
今日はこのへんで。

2012年3月28日水曜日

0226

0226

仙台のおばさんおじさんのはからいで
石巻に車で連れていってもらえることになった。

石巻は気仙沼とか陸前高田とか
もう少し北側に比べたら、形が残っている家があると言っていた。

おじさんの実家は南三陸町の内陸でギリギリ津波がこなかったようだ。
でも海側は本当に全部海に持っていかれていた。
もしかしたらおじさんの親戚や友達は家が流されたり亡くなった人もいたかもしれない。

インターから降りて大分街が戻っていたかのように見えた。

石巻は、昔は宮城の第二の都市とも言われていたくらい大きな街だったようだ。
大きな港に大きな水産関係の工場や製紙工場があって、
もくもく煙があがっていた。
海側の家はよく見ると土台しかない土地がたくさんあった。
海沿いには廃車の山があった。
瓦礫の山もものすごい高さが積まれていた。
その奥にぐしゃぐしゃになったままの鉄の階段。
建物二階分くらいの高さの魚市場の屋根は津波でぐちゃぐちゃ。
津波で大量の車が流されたから柱や壁にぶつかって曲がってしまっているようだった。

おじさんたちが5月に来た時は、道路に車や船が転がっていたし
道沿いのお墓の上に船が乗っかっていて
その上に満開の桜が咲いていて
美しく悲惨な奇妙な光景だったんだって。

それに、比べたら大分良くなったし、営業してるお店もあるけど
やっぱりまだまだ1年前のまんまの状態はいたるところに残っていた。

高台に行って街を見下ろした。
今年1番の雪に、街が綺麗に覆い隠されていた。
でも、ここで何百人の人が亡くなった。
未だに見つからない遺体だって沢山ある。
きっとここに逃げて津波に飲まれた街を見ていた人もいたはず。

私の地元は親が子供の時から
明日地震が来てもおかしくない、という教育を受けてきたから
防災訓練も半年に一回くらいあるし
参加証明書を学校に提出しなければいけなかったりするので
かなり熱心にやる。家を建てるにも耐震対策はほぼ義務づけられているようなもので
いづれ来る東海地震の震源地は焼津藤枝間だという予想が
新聞の一面だったこともあった。
確かに小さい震度3くらいの地震はしょっちゅうあって
地震があるたびに、次は東海地震かもなんて常に心配している。
多分、防災グッズが家にない家庭はほとんど無いと思う。

東京に来て、地域の防災訓練が無くてちょっとびっくりしたくらい。


石巻から松島、塩竈、仙台の海沿いへとまわった。

松島は観光客がたくさん。
お店もほとんど営業しているけど
営業再開できないようなところも少なくない。
お店の入口には、ここまで津波が来ました、と
線を描いて貼り紙しているところもあった。

雪の松島はとてもきれいだったけど
船がたくさんで、島しか見えない景色も見て見たかったな。

車で走っていても、柵や電柱がまがっていたりする。
これは津波の影響というよりは
津波で流された車がぶつかった跡みたい。

ここに車では津波に全部流されるから危険だと思ってたけど
それだけじゃないことがわかった。
津波によって流れてくる車や船によっても建物は壊れる。

たぶん、避難訓練じゃわからなかった部分。

今回、とにかく行かなきゃ!って思いで行った宮城。
現状を見れば見るほど他人事ではなかった。
人の気持ちになって、とか、
自分がされて嫌なことはしない、とか
たぶん、そういうのも人それぞれに感じてることは違う。
だから、私が安易に「自分だったらこういう気持ちになるだろう。だから他県の人にどうされたいか。」なんて
考えても意味のないような気がした。

いつか起こるといわれつづけている地元や都心部が
本当に起こってしまった場合の最善の対応を真剣に考えなければならない。

2012年2月26日日曜日

0225

0225

仙台から山元町までの道のりは
あたり一面雪景色でほとんど様子がわからなかった。
私たちが走った道路まで津波が来たんだと隣のおばちゃんは言っていたが
いまいちピンと来なかった。
ただ延々と田んぼに綺麗な続いているようにしか見えなかった。

山元町の民家。
二階建ての大きめのおうち。
手着かずの状態。
家主のじいちゃんがいた。

3月11日からもうすぐ1年。
「あれから1年」なんてメディアで特集するけど
1年なんて全然たってない。
3月11日から時計が止まっている家だった。
周りを見回すと手付かずの家がいっぱいだった。
3月11日から時計が進んでいる家はあまりなかった。

じいちゃんは特にとっておきたいものは無いと言っていた。

片付けを始める。
たぶん50人以上の人はいたけど
お家はひろいし、家の中に床が見えるところは無いし
1階は80�くらい高いとこに建ててあったけど
泥やヘドロは20�以上積もっていた。
縁側の窓の冊子はぐにゃんぐにゃんでとてもじゃないけど
人の力では外せない。
家の中から出したものは20種類以上に分別しないと
業者が持って行ってくれないらしい。
紙ゴミ、可燃、不燃、布、プラ、陶器、石膏パネル、ガラス、、、
あと大事なもの。

とりあえず家の中から出てきたものを分別した。
大きい家具から家電。本や食器。
使いかけのシャンプー。健康診断の書類。アルバム。レコード。ゲーム機。
写真は濡れてインクは溶けていたから
見る影もないような写真ばかりだった。

とりあえず形を留めているダンボールに漫画や雑誌を詰め込んだ。
でも、泥の中から出てきたダンボールなので、きれいな形のダンボールは無かった。
湿って曲がって乾いたダンボールは
雪でまた湿ってどんどん柔らかくなった。
私たちと同世代くらいかなと思わせる大量のジャンプコミッスをどんどんダンボールに詰めた。

途中、仕分けをしている人たちも
家の中の瓦礫や泥を集めたものを外に持ち出してくれと声がかかったので、キッチンに向かった。

大きなチリトリにはヘドロと食器や調味料が混ざったのがどっさり。
冬だけどやっぱり臭い。下水臭い。
これ、夏はもっとキツかったんだろうなと思う。
写真や映像では臭いは分からない。
これを外に運んでは空いたちりとりをキッチンは届ける。
みんな慣れているのか手際が良かった。
自分がちゃんと動けているのが不安だった。
すごく雪が降っていたから下ばかり見てたけど、それでもだんだん床が見えてきた。
最初はずけずけ入り込んでいた被災した民家が
だんだんじいちゃんの家に戻っていって
きれいに箒ではいた後を土足で通るのが申し訳なくなってきた。

私は見てなかったけど
天井に津波の跡が着いていたので天井のボードも取っていた。


多分、震災や津波の被害を受けたお家は順番に取り壊して行く。
掃除したお家もいずれ取り壊される。

団員の人が言ってたけど
これは死化粧のような活動なんだと。
例えば事故でぐちゃぐちゃになった遺体をそのまま火葬するのは辛いけど
きれいにしてあげる事で少しは救われる人もいる。
お家が取り壊される前に生前の姿に近づける活動なんだと。

最後は小さいブラシで隅々の砂を掻き出している人もいた。

最後にヘルヒャーをかけて終了した。

畑の上に分別されたいくつもの瓦礫の山は
悲惨さを隠すように雪が覆いかぶさっていた。
瓦礫の山は語弊があるかもしれない。

最後にじいちゃんと息子さんが挨拶をした。
また住めるんじゃないかと思えるほどになったと言っていた。

取り壊しが決まった家を綺麗にするなんて無駄だという人もいるし、言ってる事もわかる。
でも大切なものが知らないうちにゴミにされてしまうかもしれないし、
ここで亡くなった人がいたら形見や思い出が出てくるかもしれない。
忘れられるのが1番怖い。

作業は午前中で終わった。
始めて参加したけど、だいぶ大変な作業だった。
でもスコップ団のレギュラーメンバーは毎週毎週この活動を続けてきた。
それを考えると、自分たちは全然何にもできてなかったこととか
募金したから街がきれいになるわけでも元通りになるわけでもなく
誰かが動かないといけなくて
でもきっと動いているのは地元の人がほとんどで
やっぱり遠くに住んでいる人達はまた日常に戻るから
やっぱり頭の片隅においておくことしかできない。
24時間あの震災のことを考えていたら身が持たないし
やっぱり遠く離れてるから想像することしかできない。

陸前高田の方が一緒のバスに乗っていた。
自分たちのところは完全に流されて大事なものも家も全部海に持っていかれてしまった。
まだ形があるんだったら元にもどせるものがあるんだったらお手伝いしたいって言ってた。

でも、今回行ってわかったのは
やっぱり行ってみないと何もわかってないと同じだったということ。
行って、できれ自分の体を使って動かないとわからないことがたくさんあったということ。
被害が大きかったところは報道されているとこばかりじゃないこと。
東北の人たちも、いろんな考え方の人がいると思うから
感想を書くのはとても難しい。


午後、仙台に戻ったら
また普通の生活に戻ってる。
午前中の出来事が昨日みたいだった。
車で1時間くらいなのに別世界みたい。

2011年12月3日土曜日

飛行船が見えた

最近、周りが本当に輝いている人達が多くて
自分ももっと輝きたいぞー!!!
って思うんだけどなかなかそうもいかない。

タコ人間だ。軸がないんだなー。
でも、方向性はあるけど、これを何といえばいいのかわからない。

もう少し勉強したいと思うのだけど
何せ人に伝えたり本読んだり文章書くのは得意じゃない。
それでもやっぱり小さい頃から憧れてた佐藤雅彦さんに近づくアクションができないかと
最近考えてる。

どうするんだ、私。